ヨーロッパ
ウクライナ
チェルノブイリを知っていますか?~原発とフクシマ考える~(ウクライナ)
今の子どもたちにとってはもう「過去の事故」であり,「教科書の中の出来事」なのかもしれない,チェルノブイリ原発事故。
しかし,誰もが知っている通り,この日本でも原発の事故が起こってしまった。
そしてチェルノブイリ原発事故も福島と同様に,今なお解決していないのだ。1986年4月26日から,まるで時が止まっているかのように・・・。
福島の事故を受け,「あのチェルノブイリは今どうなっているんだろう」という思いに駆られた僕は,実際にチェルノブイリ原発を訪問する決心をした。
チェルノブイリは現在のウクライナにある。事故が起きたときは旧ソビエト連邦の支配下にあったが,現在はウクライナ共和国として独立をしている。
僕は隣国のモルドヴァからバスで入国した。ウクライナ南部の都市オデッサを経由し首都のキエフ①へ。キエフはいかにも「東ヨーロッパ」という町並みとたたずまいが美しい,とても過ごしやすい町である。
そのキエフから北に約130km,バスで走ること2~3時間の距離に,チェルノブイリはある。ベラルーシとの国境にもほど近い。
数年前からチェルノブイリは一般の外国人にも開放されてはいる。しかし,当然誰もが自由に訪問できるというわけではない。チェルノブイリを訪れるための専門の業者がおり,そこを通してしか訪れることはできない。事前にパスポートのコピーを送り,身分もしっかり確認される。時期にもよるが,1日の行程で料金はだいたい100~150アメリカドル(日本円にして約12,000~17,000円程度)なので,安くはない。
早朝6時半,キエフ市内の指定された場所に専用のバンが迎えに来た。参加者は,僕の他に世界中から訪れてきた旅人が15名ほど。小さなバンの中は人でいっぱいだ。
チェルノブイリに着くまでには長い道のりだ。到着するまでの間,バンの中では原発事故についてのビデオが流されていた。ちなみにキエフ市内にはチェルノブイリ博物館もあり,事故に関する詳細な内容が展示されている。原発訪問前に訪れておいて,勉強しておくとよいだろう。
原発の手前30km。まだ原発自体までにはかなりの距離があるのだが,なんと30kmも手前から立ち入りが規制されているのだ。パスポートを出し,ここで軍人による入念な身分調査をされる。
チェックが終わると,いよいよ中に入ることができる。中に入ってしまうと,そこが本当に危険な事故現場の近くだとは信じられないほど,美しい森が広がっている。真冬に訪れたので,葉を落とした木々と降り積もった雪がとてもきれいだったのだ。その様子からは,とても危機な場所とは思えなかった。
チェルノブイリ原発に近づくまでに,いくつかの場所に立ち寄った。その中でも特に印象に残ったのが,廃虚となった幼稚園とゴーストタウンと化してしまった町,プリピャチである。
ここは原発から距離にしてたったの4km。事故の前は約5万人の人々が住む,活気にあふれた町だったという。住人のほとんどが原発で働く従業員とその家族であり,まさに「原発の町」だったのだ。置き去りにされた人形やおもちゃ,お昼寝用のベッドやロッカー・・・。取るものもとりあえず,慌てて避難したであろう様子が伺える。事故があったあの日,いったいここではどんなことが起きていたのであろう。
そしていよいよ原発へ向かうことになった。大爆発を起こしたのは4号炉。そのすぐ近くまで近づくことができるのだ。
チェルノブイリ原発4号炉。かつてはその爆発の跡そのままに放置され,激しく拡散する放射能を防ぐために,石棺と呼ばれるコンクリートの壁を打ち付けていた。しかしその石棺はもちろん完璧に放射能を防げるものではなく,隙間から大量の放射線が漏れ続けていると同時に,石棺自体の老朽化も進み,極めて危険な状態になっていた。
その状態を何とかしようと考えられたのが,4号炉自体を完全にシェルターで覆うというアイデアである。そしてそのアイデアは実践され,今はまるで何かの工場のように,全体が覆い隠されているのだ。
かつてテレビの画面や資料集で見たような,むき出しの事故の跡とはほど遠い様子がそこにはあった。正直,目で見ただけではただのドームにしか見えない。危険な雰囲気も感じられない。もし写真だけを見せられたら,ここが本当にチェルノブイリかと疑ってしまうだろう。
しかし,目には見えず何も感じられなくとも,数値は「ここはチェルノブイリ」であることを如実に示していた。放射線量を測定するガイガーカウンターをかざすと,その数値はグンと上がる。キエフ市内の何百倍もの数値を指し示す。はやりここはチェルノブイリ,目の前に存在するそのドームは,確かに4号炉なのだ。
最後に放射線量のチェック⑨をし,僕たちはキエフへと再び車で戻った。翌日,僕はもっとチェルノブイリのことを学ぼうと,放射線による被害を受けた方々を治療している病院を訪問し,幸いにも医師の話も直接聞くことができた。そこでは,非常にリアルで貴重なウクライナ人の意見を聞くことができた。
とても意外だったのは,この原発の事故を「仕方がなかった」と捉えている人が多いのだ。そして,原発事故の被害者の治療をしているその医師も「原発の事故は悲劇だったが,私たちには電気も必要だ。原発がなければ多くの産業も支えられなかったのだから」と話をしていた。もっと「反原発」の空気が強いのかと思ったら,どうやらそうでもないようだった。
僕はここで原発の是非を問いたいわけではない。けれど,ただ1つ確実に言えることは,日本でも同様の原発事故が起きてしまったということである。それだけは揺るぎない事実であり,僕たち日本人が受け入れなくてはいけない現実である。
チェルノブイリ周辺に人が住めるようになるためには,最低でもあと600年かかると言われている。私たちが住む日本,そして福島。これからいったいどのような道を歩んでいくことになるのだろう。
僕がチェルノブイリを訪れた日は大雪でひどく気温も低かった。マイナス15度は下回っていただろう。バンの中で冷え切った手足を温めながら,人類の在り方を考えさせられていた。
ウクライナ
首都 | キエフ |
---|---|
面積 | 60万3,700平方キロメートル(日本の約1.6倍だよ) |
人口 | 4,260万人(2016年 世界銀行) |
言語 | ウクライナ語(国家語),その他ロシア語も広く通じるよ。 |
宗教 | ウクライナ正教および東方カトリック教。 その他,ローマ・カトリック教,イスラム教,ユダヤ教など。 |
- ▼チェルノブイリ原発事故
- ソビエト連邦のチェルノブイリ原発4号機で,1986年4月26日に起きた原
げん 子し 炉ろ の暴ぼう 走そう と爆ばく 発はつ 事じ 故こ 。放出された放ほう 射しや 線せん は膨ぼう 大だい な量であり,広島に投下された原子爆ばく 弾だん の500倍ともいわれているんだよ。半径30kmの住民11万6000人が強きよう 制せい 避ひ 難なん させられ,多くの村が廃はい 墟きよ となっただけでなく,欧おう 州しゆう 各地はもちろん世界中で放ほう 射しや 能のう が観かん 測そく された。日本でも観かん 測そく されたんだよ。 -
▼新シェルターの建
けん 設せつ - 2016年11月29日,爆
ばく 発はつ した4号機を覆おお う巨きよ 大だい な鋼こう 鉄てつ 製せい シェルターが設せつ 置ち されたんだ。新しいシェルターは,高さ約110メートル,幅はば 約260メートル,長さ約160メートルのアーチ型の構こう 造ぞう 物ぶつ 。近くで組み立てられ,300メートル超ちよう を油ゆ 圧あつ ジャッキを使って所定の位置まで滑すべ らせるという方式で設せつ 置ち された。
記念式典に出席したウクライナのポロシェンコ大だい 統とう 領りよう は「多くの人が疑うたが い,信じようとしなかったが,私わたし たちはなし遂と げた」と新シェルターの完成を祝った。建けん 設せつ 費ひ 17億ドルは,40以上の国や機関からの援えん 助じよ でまかなわれ,日本も多た 額がく の援えん 助じよ をしているんだよ。