ヨーロッパ
ボスニアヘルツェゴビナ
戦争の傷跡より~ボスニア内戦が教えてくれるもの~(ボスニアヘルツェゴビナ)
ほんの20年前まで内戦が続いていた国,ボスニアヘルツェゴビナ。果たしてどれほどの日本人が,この国のことを知っているのだろうか。
「ヨーロッパの火薬庫」と言われていたバルカン半島。多様な民族と宗教が入り混じったこの地域では,かつてよりさまざまな対立が生まれていた。
ボスニア紛争は1992年から1995年まで続いた。終結後,20年以上の月日が流れてはいるものの,街中にはそこかしこにその傷跡が残っている。
街角に当たり前のように建ち続けている,弾痕が痛々しく残る建物の数々。その弾痕の数は半端ではない。とても数え切れないほどの銃撃があったことが,その跡を見るだけでよく分かる。
ボスニアの人々は,どのようなおもいでこれらの建物を見ているのだろう。第二次世界大戦後,まったく紛争のない国で生まれ育った僕たち日本人には,紛争を経験した人の気持ちなど,正直分かることはないのであろう。
しかしそれでも,その空気を吸うことと「肌感覚」を得ようとすることは間違いなく大切である。
ボスニアヘルツェゴビナ南部の町,モスタル。僕はクロアチアからバスでこの町に入った。
市内を流れるネレトヴァ川。その川に架かるスタリ・モスト(古い橋の意)は,2005年,ボスニアヘルツェゴビナ初のユネスコ世界遺産に登録されている。穏やかな空気が流れ,石造りの道路が美しいモスタルの町を歩いていると,かつてここでむごたらしい紛争があったことなんて,まるで作り話のように思えてくる。
南アフリカで出会った日本人が教えてくれたおすすめの安宿「Hostel Nina」のオーナー,Zakiさん。彼は青年時代に,この悲劇の内戦を経験したという
しかし,彼と話をしていると,おだやかさな人柄に驚かされる。いつも笑顔で温かく接してくださり,紛争を経験したなんて信じられないくらい優しいのだ。僕と接するときも気を使って,いつも笑顔で話し掛けてくれるし,モスタルを離れるときには,なんと駅まで車で送ってくれたのだ。
Zakiさんだけではない,ボスニアの人々はたいてい優しい。数多くの国を訪れてきたが,ボスニアの方の優しさは特に心に染みるものがあった。
「マサキ,どうだ。ビールでも飲みに行かないか?」
ある日の夜,Zakiさんが誘ってくれた。僕は喜んで一緒にバーに足を運んだ。「俺はラッキーなんだ,マサキ。内戦のとき,太ももをスナイパーに撃たれたんだ。それも2回もね。もし頭や心臓に当たっていたら,俺は間違いなくここにはいなかったよ。」
スナイパーに 撃たれた……。そんなむごたらしい体験を,Zakiさんは笑顔で語ってくれた。そこには恨みや憎しみといった感情はなく,ただ淡々と,その出来事を僕に伝えてくれているようだった。
彼らには,「悲しみゆえの優しさ」がある。
彼らには,「つらさゆえの幸せ」がある。
悲しさを知るから人は優しくなれるのであり,厳しさを知るから人は温かくなれる。ボスニアヘルツェゴビナの人々が体験してきた歴史は,決して幸せなものではない。二度とあってはならない歴史である。しかし皮肉なことに,その歴史が,この国の人たちの優しさにつながっているのかもしれない。
次の日,Zakiさんと町を歩いていた。あるお墓の横で,彼は小さく教えてくれた。「俺の大事な友達がここに眠っているんだ」と。
多くのお墓が,1993年没となっている。つまり,あの内戦で命を落とした人が眠っているのだろう。
「じゃあな,マサキ!ボスニアに来てくれてありがとう!」Zakiさんと力強く握手をし,僕はモスタルを離れた。
モスタルを後にした僕は,ボスニアヘルツェゴビナの首都,サラエボに向かった。1984年に行われた,サラエボ冬季五輪の会場。そこには,内戦の激しさを今に伝える場所がある。
一面に広がる墓石。ここはかつて,オリンピックのための競技場だったという。しかし,激しい内戦によって犠牲者が増え,埋葬する場所がなくなってしまった。そこでこの競技場を墓地にせざるを得なかったという。
モスタルと同じく,その墓標のほとんどは1992年,または1993年没,となっていた。
あの内戦でいかに多くの命が奪われたのかがよく分かる。
ボスニアヘルツェゴビナ。
日本からは地理的にも遠いし,ほとんどの日本人にとってはなじみのない場所であろう。しかし,そこには決して忘れてはならない,悲しい歴史の現実があった。
日本という国は,本当にたまたまこの数十年「戦争」がなかった。しかし,世界の各地では,常に「戦争」は存在し続けてきた。それは対岸の火事などではなく,同じ地球に住む一員として自分事として考えなければならない現実である。
今は平穏な暮らしを取り戻しているかのように見える,ボスニアヘルツェゴビナ。しかし,人々の心には,決して言えることない大きな傷が残っていることであろう。
ぜひ一度,たくさんの日本の若者にも,このボスニアの地に足を踏み入れてほしいと思う。きっと感じることが色々あることだろう。
ボスニアヘルツェゴビナ共和国
首都 | サラエボ |
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面積 | 5.1万平方キロメートル |
人口 | 353.1万人(2013年:国勢調査) |
言語 | ボスニア語,セルビア語,クロアチア語 |
宗教 | イスラム教,セルビア正教,カトリック |
- ▼ボスニアヘルツェゴビナ内戦
- 1992年,旧ユーゴスラビア連邦からのボスニアヘルツェゴビナ独立に際して,民族対立から激しい内戦が生じたんだ。セルビア人・クロアチア人・ムスリム人の三民族の対立から深刻化した内戦なんだよ。セルビア側の民族浄化を掲げた行為が世界的に非難され,NATO軍の介入によって1995年に停戦が成立した。でもその内実,なお複雑な問題を抱えているんだ。
- ▼サラエボのバラ
- ボスニアヘルツェゴビナの首都,サラエボにあるモニュメントのことなんだ。迫撃砲の砲弾によって死者を出した爆発の跡を,後に赤い樹脂で埋めたものなんだよ。樹脂が花の様に配列している事からこのように呼ばれている。あの悲惨な内戦を忘れないようにという思いから作られたんだ。
- ▼スナイパー通り
- セルビア人勢力によって包囲されたサラエボは,軍事的に優位な陣地と町への補給路は,ほぼすべて,ボスニア政府軍からセルビア人の手の内にあった。それによって,たくさんの通りがセルビア人の狙撃兵によって狙われる危険な道になってしまった。それらの通りは通称「狙撃兵通り(スナイパーストリート)」と呼ばれるようになり,横切るだけでも大変危険だったんだよ。